インタビュー

◆ 「マッスル・ショールズ」を知ったきっかけ

―「マッスル・ショールズ・サウンド」あるいは「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」について、知ったきっかけはなんでしたか?
ピーター・バラカン(以下PB) レコーディング・スタジオのこと自体を意識するようになったのは1960年代終わりから1970年代初め頃です。それまでは、レコードのクレジットにスタジオの名前はあまり出なかったからスタジオ名まで意識することはありませんでした。ただ、マッスル・ショールズで録音された曲は中学生の時(1960年代半ば)から聞いていたけれど、そのスタジオの名前を意識したのは、いつだろうなあ、早くても、ローリング・ストーンズの「ブラウン・シュガー」(1971年5月からヒット、全米1位)、そのアルバム『スティッキー・フィンガーズ』(1971年5月)くらいからだと思います。その頃から音楽好きがマッスル・ショールズの名前を知り始めたのかもしれない。
ザ・ステイプル・シンガーズの「アイル・テイク・ユー・ゼア(I'll Take You There)」(1972年4月からヒット、全米1位)の頃までには、マッスル・ショールズの事はそれなりに音楽が好きな人は、少し意識する存在になっていたと思います。
他にボズ・スキャッグズの「Loan Me A Dime」という曲があって、これは1969年に出たデビュー・アルバム『ボズ・スキャッグス(Boz Scaggs)』(Atlantic)に入っています。ただ、僕はこのレコードをリアル・タイムではなく、数年遅れで聴きましたが、持っている人はマッスル・ショールズを意識していたと思います。なぜかというとそのアルバムは、見開きのジャケットになっていて、当時のマッスル・ショールズのリズム・セクションのミュージシャンたちの写真やスタジオのクレジットも載っていたからです。1969年の段階でスタジオ・ミュージシャンたちの写真や名前を載せるということは極めて珍しいことでした。ボズは参加ミュージシャンをとても大切にしていたということだと思います。たぶん、彼とそのプロデューサー、当時ローリング・ストーン誌の編集長だったヤン・ウェナーの意向もあったのかもしれません。
キーボードはバリー・ベケット、ベースはデイヴィッド・フッド、ドラムズはロジャ・ホーキンズ、ギターはジミー・ジョンスンら、フェイム・スタジオを辞めて彼らが独立して作ったマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオの面々によるレコーディングでした。ただその頃は、そうした事情はまだみんな知らなかったと思うんです。ひょっとしたら詳しい音楽ライターだったら知っていたかというくらいでしょうか。

―音楽ファンには知られていなくても、ミュージシャンたちの間ではすでに噂は広まっていたんでしょうか?
PB この時期はミュージシャンというかレコード会社、主にアトランティック・レコードですよね。1950年代の終わりから1960年代初頭に、マッスル・ショールズという土地にテリー・スタフォード、リック・ホール、ビリー・シェリルの3人で初めてのスタジオのようなものを作り、最初はのんびりやってたいたのですが、リック・ホールだけ、がんがんやりたいからはずされちゃって、仕方なく、彼は自分で新たな会社・スタジオ(フェイム・スタジオ)を作ったわけです。最初はレコーディング・スタジオをやりながら、主に(楽曲を管理する)音楽出版社を地味にやっていて、そこで録音した原盤をほかのレコード会社に売っていました。そうして売れた曲がいくつか出てきて、その噂を聞きつけたジェリー・ウェクスラーというアトランティックのプロデューサーがやってくるわけです。彼はやはり先見の明があった。映画にもでてきますが、そのジェリーもメンフィスにあったスタックス・レコードのスタジオを使っていたんですが、そこと関係が悪くなってスタックスが使えなくなり、こっちのマッスル・ショールズに来るわけです。やはり、南部でスタックスに代わる別のスタジオが欲しくなったんですね。

◆ 他のスタジオとの違い

―その当時の他のスタジオとマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオが大きく違っていたところは?
PB 例えば、アトランティック・レコードはニューヨークにできた会社で、楽譜が読める一流のスタジオ・ミュージシャン、有名な編曲家を起用して、録音の準備が完全に整った状態で、かなり高いスタジオ代を払い、効率よく、たとえば3時間のセッションで4曲きっちり録音するのが当たり前だったのです。
ところが南部はまったく違いました。ミュージシャンはほとんど楽譜が読めない。そこでコードに番号を当てはめていて、「ヘッド・アレインジメント」と呼ばれる楽譜なしで頭の中で編曲するというやり方をしていました。たとえば「ド」の音を「1番」、「ファ」の音を「4番」と言って、その数字でやりとりするわけです。南部の当時のやり方は、ニューヨークの人たちはちょっとびっくりするものでした。スタジオ代も1時間いくらというわけではなく、仕事が終わるまでいくら、というざっくりとした仕組みでした。そのような状況もありニューヨークなどより、もっとリラックスして、楽しんでレコーディングが出来ました。(音楽を)感覚的に創るもので、ジェリーも当時のアトランティックが求めていたソウル・ミュージックに、そのやり方が合っていると感じていたんだと思います。
マッスル・ショールズに送り込んだ最初のシンガーはウィルソン・ピケットでした。このピケットは人付き合いがとても難しい人で、スタックスの人たちとピケットはもうやりたくないと言っていたので、ではマッスル・ショールズに連れて行こうってなったんですね。その後、アリーサ(・フランクリン)を連れて行き、アリーサは結局あのスタジオでは1曲しかやってないんですが、そこのミュージシャンたちとはニューヨークでいくつもレコーディングしてたくさんヒット曲がでています。

◆ 黒人歌手のバックを白人がつけるということ

―マッスル・ショールズのスタジオの特徴として、黒人のシンガーに白人のバック・ミュージシャンがつくという事も挙げられますが?
PB これは誰もがびっくりしました。伝説になっているソウル・ミュージックのたくさんの曲がマッスル・ショールズで創られていて、歌っているのが黒人でバック・ミュージシャンはほぼ全員白人ということにものすごく驚きました。ソウル・ミュージックの名曲となると誰もが黒人が演奏していると思うから、「なぜだろう?」と不思議に感じたと思います。
ソウル・ミュージックとカントリー・ミュージックがまったく違うものだと思っている人が多いんですが、意外にそうでもなく、両方とも南部の土壌から出てきたもので、もちろん白人と黒人の感性の違いや表現方法も違うけど、音楽的には意外に近い。例えば、同じカラオケで歌手だけを入れ替え、白人が歌ったらカントリーに聞こえて、黒人が歌ったらソウルに聞こえる曲が結構あります。
ただ、マッスル・ショールズのカントリー・ミュージックはナッシュヴィルのものとはまた違う感じがします。マッスル・ショールズが南部のさらに田舎ということも大きい要因かと思います。南部の中でもナッシュヴィルは一番都会的で音楽産業がはやくから発達していて、ニューヨークに近いやり方でやってきた。楽譜は読まないけれど、ビジネスライクなやり方で録音をしていたのです。でもマッスル・ショールズは南部の中でも、さらに本当に田舎だから、ナッシュヴィルと違ってさほど発達していないからこそプレッシャーもなく、好きなように、独特な南部のやり方でできたんでしょう。

―ニューヨークでも白人が黒人のバック・ミュージックをやることはあったのでしょうか?
PB ニューヨークではまずないことでした。これは南部の感覚です。アメリカの南部って奴隷時代から黒人と白人の扱いは全く違っていてもずっと一緒に生活しています。だから微妙にお互いに影響し合っていました。白人家庭の家政婦が黒人で、子供がお母さんと過ごすより、家政婦と過ごす時間の方が長いから、当然、色々な意味で無意識に影響されていることがあったり、音楽面でいうと、昔から白人のために黒人が演奏することがありました。一方、ニューヨークやシカゴのような都会だと黒人が黒人のために演奏をすることが多かったのです。もちろん南部でもそういうこともありました。しかし、1920年代、1930年代の音楽だと黒人=ブルーズというイメージがありますが、実際、白人のお客さんの為にダンス・ナンバーも、ポピュラーなものも、なんでもできないといけませんでした。つまりは、「人間ジューク・ボックス」みたいな能力がなければ生計をたてられなかったという記録が沢山あります。つまり、白人と黒人の接点はみんなが思っている以上にあったんです。 そして何よりも、ラジオの存在は大きいです。マッスル・ショールズの人たちはきっと子供の頃から黒人が周りに多かったと思うのですが、だから彼らの耳に入ってくるラジオは黒人に向けたラジオだったことがあります。この映画にも出てくるダン・ペンが別のところで証言してるんですが、彼もそうした黒人向けのラジオを聴いていました。アメリカのラジオはひとつのジャンルに特化したものが多いから、無意識のうちに黒人の音楽の影響を受けているはずです。マッスル・ショールズはその最たるものだと思います。
歴史を変えたブラック・ミュージックのレコード会社というのは大体個人が始めたものなんですね。アトランティック・レコードを始めたアーメット・アーティガン。彼はトルコ人で「大人の黒人が楽しめる音楽」を作ろうとした。メンフィスのサン・レコードを始めたサム・フィリップス。彼の息子がこの映画にもちょっとでてきますね。サムは元々ラジオ局のエンジニアでしたが、大好きなブルーズを人々に知って欲しい気持ちからレコード会社をはじめました。そして、フェイム、マッスル・ショールズ・サウンドはリック・ホールという人が始めた。マッスル・ショールズを語るときに、このリック・ホールを語らずして始まらないという感じはしますね。

♦ 世界のアーティストたちを惹きつけた理由

―ローリング・ストーンズ、ポール・サイモン、ボブ・ディラン等の一流のミュージシャンたちがマッスル・ショールズで録音したきっかけは何だったんでしょうか?
PB ほとんどはアトランティック(・レコード)がきっかけだと思います。その中でもジェリー・ウェクスラーというプロデューサーは大きな役割を果たしています。彼はボブ・ディランがマッスル・ショールズで作ったアルバム(『スロー・トレイン・カミング』=1979年)もプロデュースしました。また、ストーンズは元々アトランティックから出ているソウル・ミュージックのレコードが大好きで、いっぱい聞いてきて、自分たちでもソウルのカヴァーをたくさんやってきて、自分たちが設立したローリング・ストーンズ・レーベルの配給もアトランティックにしてもらっています。しかし、それより数年前に、ウィルソン・ピケットがレコーディングしていなければ、ストーンズも行っていないと思います。全てがそこから始まっています。
ではジェリー・ウェクスラーがどうやってマッスル・ショールズのことを知ったかというと、1964年にフェイムから出たジミー・ヒューズの「スティール・アウェイ」をアトランティックが全国販売してからだと思います。

―有名な人々を魅了したマッスル・ショールズのサウンド、音楽、ミュージシャンたちの魅力とは何でしょう?
PB それはここのミュージシャンたちが作るグルーヴ。他にはないグル―ヴがあるからみんな来るんですよ。本当に気持ちがいい。ロジャ・ホーキンズというドラマーは、見た目は全然かっこよくないけど、彼の演奏はしびれますね。1970年代によく使った言葉で「レイド・バック」の感じです。もちろんアメリカでも他にはないし、イギリスやほかの国でもない、世界のどこにもなくて、ユニークなサウンドですね。

―最後にこの映画をご覧になられて初めて知ったことは?
PB ソウル・ミュージックが大好きで、関連書籍を色々読んでいますから基本的な物語は知っていましたが、これだけ詳細に描いたものを見ると当然知らなかったこともありました。例えば、ウィルソン・ピケットの「ヘイ・ジュード」はお昼休みに(マッスル・ショールズでスタジオ・ギタリストとして活動していた)ドュウェイン・オールマンが思いついてピケットに歌うように説得したとか、そういう面白い裏話が随所にありますね。
あの時代って、映像作家の対象にはなっていないと思うので、これだけあの頃の映像があったというのは驚きですね。監督に会う機会があれば、映像をどういうところで入手したか、聞いてみたい!!

―ありがとうございました。

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アラバマ州マッスル・ショールズのマッスル・ショールズ・スタジオでレコーディングした日本人がいた、岸田邦雄だ。渋谷と名古屋でヴィンテージ・ギター・ショップ“Nancy”を経営する傍ら、自らもギタリストとして精力的に音楽活動を続けている。つい先ごろ、5枚目のアルバム『Northern Song』を日米同時リリースしたばかり。ダウン・トゥ・アースでグルーヴ感あふれたブルージーなギター・サウンドには、アメリカ南部の音楽をこよなく愛する岸田のエネルギーが凝縮されている。実にホットなフィーリングが満ちているそのサウンドに思わず”GROOVY!“と叫びたくなる、そんな彼のギターはアメリカの多くのサザン・ロッカー達からも注目されている。国内外を含め彼らとの共演は枚挙にいとまがない。今年3月もローリング・ストーンズのサポート・ミュージシャンとして来日した(元オールマン・ブラザース・バンドのメンバーだった)チャック・リヴェールとのレコーディングを都内某スタジオで敢行した。そんな岸田の2002年のファースト・アルバム『南水(Swamp Water)』、05年セカンド『Alabama Boy』はマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでのレコーディング、凄い!岸田邦雄にマッスル・ショールズの素晴らしさをじっくりと語ってもらおう・・・。

◆ マッスル・ショールズとの出合い

1978年、我が国の米軍基地でナッシュヴィル出身のジェリー・ワッスレ―・ジュニア率いるバンドのライヴを観たのがそもそもの始まり。ジェリーと話をしたんだけど、その後は別に連絡を取り合うことはなかった。5年後、83年にブレンダ・リー日本公演でバック・ミュージシャンとして来日したジェリーと渋谷の楽器店で偶然、再会。ここから親交が始まった。その頃、僕はオールマン・ブラザース・バンドのトリビュート・バンドを組んでいて、以来、彼は来日するたびに僕のバンドに飛び入り参加してくれるようになった。一方で91年にオールマン・ブラザース・バンドが来日、ギタリストのディッキ―・ベッツに自分のバンドの音源を聴いてもらった。ほとんどはオールマンの楽曲だったんだけど、1曲だけオリジナルが入っていて、それを聴いたディッキ―に「これだよ!これをやらなきゃ!こんな曲が作れるならオリジナルで勝負しなくちゃ・・・」と助言された。師匠に言われたらオリジナルを作らないわけにはいかない、それからは曲作りにまい進、97~8年頃からはオリジナル・ナンバー中心のライヴで頑張っていた。そんな頃、ジェリーが日本に遊びに来て僕らのバンドに飛び入り参加、「オリジナルやってるんだ、だったらレコーディングしよう!」。ジェリーはナッシュヴィルの音楽仲間に、サザン・ロックをリスペクトしている日本人ミュージシャンがオリジナル楽曲を制作したいと伝えてくれた。そうした展開の中でオールマンのプロデューサー、ジョニー・サンドリンを紹介してもらった。デラニ―&ボニ―のボニ―・ブラムレットを呼ぼうとか、凄い話しに発展。最初はエルヴィス・プレスリーがレコーディングしていたことで知られるナッシュヴィルRCAのスタジオを使おうという案も出たんだけど、プロデューサーがジョニーということで録音場所はマッスル・ショールズに・・・。フェイム・スタジオをリクエストしたんだけど、あそこは少し手狭すぎるということでマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオに決定。

◆ サザン・ロック聖地でのレコーディング

マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオってとても不思議な場所。あのエリアには多くのミュージシャンが住んでいて、僕がレコーディングしていると「変な日本人がいるぞ!」って、彼らがどんどんスタジオにやって来る。休憩からスタジオに戻って来たりすると、必ず有名人が座っているんだ(笑)。最初にレコーディングしたのが12年前、デジタル主流の中で僕はあくまでアナログ録音を続けていたんで、その辺もミュージシャンの興味を引いたんじゃないかな。

◆スタジオで人種差別問題が起きたことは一度もなかった

1970年代にジョージア州に行ったことがあるんだけど、あの時はまわりに“何だこいつは”みたいな人種差別チックな目が・・・、あるホーム・パーティーに招待された時のこと、僕が部屋に入ったとたん誰も喋らなくなった。アメリカ南部というと、その時のショックが大きかったので、心配になってジェリーに“日本人がマッスル・ショールズに行って人種差別されない”“撃たれたりしないよネ”って、たずねたんだ。何も心配する必要ないと保証してくれた、実際その通りだった。映画の中でも、「このスタジオで人種差別によって、問題が起きたことは一度もなかった」と紹介されていたけど、本当にそのような雰囲気だった。

◆アラバマのスタジオの魅力

日本は何でもすぐスクラップ&ビルド、いやだなこの習慣。フェイム・スタジオに行くとデュアン・オールマンがギターを弾いてる1968年ショットがずっと飾ってある、これだ!マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで僕がレコーディングした時も、時が止まっているみたいに全部レイアウトが同じ。1960年代、70年代のまんま。きっと彼らは模様替えしただけでも音全体が変わってしまうと思っている。40周年の高円寺“次郎吉”、昔ながらの小さな小屋、でも音を録ると分かるんだ、グッド・サウンドが録れる、毎日なってるから。スタジオもそれと同じ、入って手を叩くとすぐに分かる。古いスタジオは何か音が柔らかい。名盤が生まれるスタジオというのはきっとそういった歴史の中から生まれるんだと思う。

◆マッスル・ショールズのアメリカでの評価

アメリカのミュージシャンにもマッスル・ショールズは純粋、商業ペースでないところが高く評価されている。同地のミュージシャンはテクニックではなく”間”を重要にして、いかに音を削るかっていうことを意識して録音をしている。その結果として何10回も何100回も聴ける素晴らしい楽曲が誕生する。現代のデジタル・レコーディングは音圧をアップさせてイヤフォンで聴きやすいようにしている、でもアナログ・レコーディングはスピーカーで聴くことを考えている。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオのスピーカーは僕らの家にあるような高価なものではない、10000円で買えるようなものを使っているんだ。

◆アイ・ラヴ・マッスル・ショールズ

マッスル・ショールズのミュージシャンは素晴らしい。アレサ・フランクリンやパーシー・スレッジら有名アーティスのほかにも、名前が出ない名作、名盤が沢山ある。そんな名盤に共通するのは、自然な流れから出てくる、人間が呼吸するように音楽が出てくる”豊かさ”だ。この“豊かさ”こそが、僕がマッスル・ショールズで一番感じたこと。何かあったときはそこを信じる、戻れる場所があれば、自分がもう一度ふんばれる。僕にとってはそれがマッスル・ショールズ!

http://www.nancy-g.com/
<Kunio Kishida:interviewed by Mike Koshitani>

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